赤薔薇の夢はもう見なかった。
代わりに見たのは、深い海の底へ沈んでいく夢。
水面に手を伸ばそうと、すると。

あの茨の蔦が、私の手首に絡んでいた。



「…イヴ。」
耳に染み込んだ声はメアリーじゃない。柔らかいその音は意識を優しく揺り起こす。
ゆっくり開いた視界の中で、その人は花が咲くように笑った。
「イヴ…!」
ぎゅっと、抱きついたその人をイヴは、知っている。
「…ギャ…リー…?」
「ええそうよ、イヴ。思い出してくれたのね。また会えて嬉しい…!」
抱きしめる、コートの感触。頬に触れる紫の髪。ほんのりと香る煙草。
ギャリーだ。ギャリーがそこに、いる。
蘇る記憶と気持ち、頭の中じゃ収まらないそれが瞳から零れた。
「ギャリー…ギャリー…!!」
ぎゅっと、イヴは抱きしめ返した。憶えてる。ありありと憶えているこの体温。
どうして忘れてしまっていたんだろう。助けてくれた、支えてくれた、大切な人の事を。
「もう、イヴったら泣かないでよ。アタシまで泣いちゃいそうじゃない。」
すっと離したその指で、ギャリーはイヴの目元を拭う。
にっこり微笑んでみせるギャリーも、ほんのり涙を浮かべていた。
「もう泣くのはおしまいよ。こうしてまた一緒にいられるんだから。ね?」
「…うん…!」
ようやくイヴに、笑顔が零れた。それを見てギャリーもふんわり目を細める。
信じられない。また会えるなんて思わなかった。だってギャリーは、

そこでイヴは、はっとする。
背筋が冷たくなった。どうしてまた会えたんだろう。だってギャリーは、


あの世界で眠りについたはずなのに。


大きく開いたイヴの目に、とりまく世界が知覚された。
紫の床。紫の壁。そこにかけられたいくつもの絵画。静かに立ち並ぶ作品達から、染みだすような冷たく不気味な気配…それはひどく馴染みのある空間だった。
あの世界だ。深海の奥底の、美術館。
まるでイヴが気がつくのを待っていたかのように、ギャリーの背後から腕が伸びてきた。イヴへにたりと笑う、赤い服の女。
「…!」
逃げな、きゃ。逸る気持ちに反して、足が動けない。
「ギャリー…逃げなきゃ、逃げなきゃ…!」
「…え?どうして?」
「後ろ…!」
「え?…ああ。」
きょとんとしたギャリーは、唐突ににっこり笑う。
そして目を薄らと、開けた。

「コレのこと?」

そう言った瞬間に、紙が破れる音が響いた。
本当に一瞬だったんだ。ギャリーを中心に大量の茨の蔦が渦巻いて、彼女の絵を突き破るまで。
「大丈夫よ、イヴ。」
呆然、と、ギャリーを見上げるイヴ。見下ろすギャリーは、にこりと笑みを浮かべていた。
「アタシのイヴに、誰も触らせる訳、ないでしょう?」
イヴは、ギャリーを見つめて、そしておそるおそる茨へ視線を移した。所々に青い薔薇が咲く、細くて鋭い茨の蔦。見覚えがあった。何度も、何度も。夢の中で。
まさか。ギャリーがこれ、出したの?
信じられない光景に唖然とするイヴは、茨のように伸びてきたギャリーの腕に全く気付かなかった。

「ッ!」
強かに背中を打ちつけた。
ぎり、と掴まれた両腕にイヴは目を細める。痛い、痛い。掴んでいるギャリーはただただ、無邪気に微笑んでイヴを見下ろした。
まるで力の加減をすっかり忘れたような。目の前のそれが子どもだと、わかってないような。
……ギャリー?
イヴはただ、目を、瞠る。

「イヴ…イヴ。逢いたかったわ。」
恍惚と、名を呼ぶギャリー。
「ずっとずっと、逢いたかった。」

ふっと影がさして、頬に柔らかい感触が触れた。垂れる髪の毛がイヴをくすぐる。
中学生の知識でも、それが何かくらいはわかる。けれどそれが首へと降りてくると、完全に理解の範疇を超えていた。
「えっ…ギャリー?ギャリー…!?」
「逢いたかった…逢いたかったわ、イヴ。ねぇ、外の世界は一体何年経ったの?此処って時計もカレンダーもないから全然わからなくて困ってたのよ。」
こんなに綺麗になったんだもの。きっとたくさん時間が経ったんでしょう?
長い綺麗な髪をひと房手に取り、口づけた。次いで喉元に押し当てる唇。覗かせた牙で甘噛むと、いよいよイヴがびくっと震えた。
そんなイヴをぼうっと見つめるギャリーは、
イヴが知らない笑みを、浮かべていた。
「そう、困ってたの。待っても待ってもいつまで待てばいいのかわからなくて。何秒経ったのか何分経ったのか何日経ったのかわからなくて。いつになったら逢えるのかわからなくて。いつになってもイヴがいなくて。どこにもいなくて。」
熱に浮かされたような言葉達が、イヴをぞっと怖気立たせる。

長い、長い、長い間。
散り果てた花弁も乾いて崩れ、残った茎も枯れて萎れて。
ギャリーには何も無くなった。
何を怖がっていたのか、何故自分が此処にいるのか、どうしてこんなに涙が零れているのか、何もわからなくなってしまった。
在るのはただ一つ。ギャリーの中に根付いた"願望"だけ。

イヴと 居たい。

「バカよねぇ、アタシ。」
ぎり。掴む力がさらに強まる。
「いないなら逢いに行けばいいのよ。」
たどたどしく抵抗する手を、頭の上でまとめあげる。
「行けないならこちらに呼んでくればいいのよ。」
かたかた震えるイヴの耳元に、唇を寄せた。

「ねぇ、そうでしょ?アタシのイヴ。」

「捕まえて、二度と離さなければ、ずっとずっと一緒よ、ね?」



かた、かた。
震えるイヴの大きな目から、涙が滴った。
「…あら。もう、イヴったら泣かないでよ。アタシが怖いの?」
薄らと笑むギャリーに、ぼろぼろとイヴは泣いた。
うん。怖い。今のギャリー、怖いよ。でも。それ以上に。
「…ごめんね…。」
泣いている理由は、別にあった。
「ごめんね…ギャリー…!」

だって嫌という程伝わってきたから。
絵の中に置き去ってしまったギャリーがどれだけ寂しかったか。長い長い間ひとりぼっちで。こんな所にひとりぼっちで。
こんな風になってしまう程、寂しかったことが。
たくさんたくさん、伝わって、きたから。…それなのに。
「…ギャリーが…ひとりで、寂しかったのに…私、忘れてたの。ギャリーの事、ここの事、メアリーの事、全部、忘れてたの…。」
怖さから自分を守る。そんな自分勝手なエゴのせいで。
私はこの人を、ずっとずっとひとりぼっちにしちゃったんだ。
「ごめんね…ギャリー、ごめんね…!」

…今度は、ギャリーが呆然とする番だった。
ぼろぼろ涙するイヴを、呆然と見下ろす。自分の為に流される涙を、ひどく不思議そうに見ていた。
…なんて、綺麗な涙を流すのだろう。
自分のためじゃない。相手を想って流す涙。そんな涙をギャリーは知らない。願望しか持たないギャリーには、わからないものだった。
ああ、それとも忘れてしまったのかしら。
もう形も思い出せない、青い薔薇に思いを馳せる。ねぇ、アタシもこういうモノだったのかしら。ああ、薔薇はどうして散ったのだっけ。
この子と一緒に居たかったアタシは、
どういう、モノ、だったのかしら。

(……。)
願望しか持たないギャリーでも、このぐらいはわかった。
どういうモノだったとしても。今の自分とは程遠いモノなのだろうな、と。
「…ギャリー…?」
突然するりと解けた手に、イヴが首を傾げた。
もう、そんな可愛い顔しないでちょうだい、イヴ。
アタシが願望を"我慢"するのって、すっごく大変なんだからね?
「ねぇ、イヴ。…絵を殺す三つの方法、知ってる?」
ギャリーがイヴの手をそっと取る。その手に茨が絡みつき、指を切らせた。
「一つは、燃やす事。一つは、忘れ去る事。そして最後の一つ。」
ぐい。相変わらず加減のわかってない力で、ギャリーはイヴの手をひっぱる。
イヴは痛みにぎゅっと目を瞑ったが、すくに目を見開く事となる。

「塗り潰す事。」
血の滴る指が、青い薔薇の花に向けられていた。
「違う色で、塗り潰してしまう事よ。」

塗り、潰す。
今にも触れそうな赤い雫。それが花弁に触れればどうなるか…察しのついたイヴは、真っ青に青ざめた。
「やっ…だめ、ギャリーだめ、だめ…!」
「…ねぇ、イヴ。イヴの知るアタシって、どんなヤツだったのかしら。」
造花と成り果てた青い薔薇を、醒めた目でギャリーは見つめた。
「思い出せないのよ。どうしてこんなにイヴと居たかったのかも、思い出せないの。"アタシ"は、捕まえて一緒に居ればいいと思ってる。でも本当は、元々の望みは、違ったのかもしれないなって…。」
どういう望みだったの、かしらね。
まだ零れるイヴの涙を遠い目で見る。感じるのは疎外感。イヴと自分は違う。何かが大きく違うという、疎外感。
何かを大きく踏み外してしまった。そんな予感がしていた。
彼女に手すら届かない程、大きく。

「…それが思い出せないなら、アタシにこの"願望"は無理なんだわ。」
薔薇が散り果てたギャリーでは。ギャリーの精神を失った、ギャリーでは。
「"アタシ"はもう、"ギャリー"じゃないんだもの。」

…ギャリーの手に力が籠った。骨が軋みそうなほど強く。
痛い、痛い。必死で振りほどきたいのに、大人の力ははねつけられない。
「いたっ…ギャリー、ギャリー…!」
「早くしてちょうだい。…今を逃したらアタシ、二度とイヴを逃がせないわよ。」
「嫌だ…ギャリー、ギャリー…!せっかく思い出せたのに…せっかくまた会えたのに…!!」
涙の混じる叫びに、ギャリーは目を瞠った。
…嗚呼。一瞬だけ、散る前の青い薔薇を思い出せた。なんて嬉しい言葉。けどこれを、受け取るべきはアンタよね。

「…それなら、イヴ。ひとつズルい事していいかしら。」
ギャリーがイヴの手を引いた。
ぐいっと、勢いよく引いたのでイヴの身体が傾ぐ。ぐらりと傾いだその唇に、唇が重なった。

「呪いを、かけてあげる。」
指先が薔薇に、触れた。








***


「イヴ…!イヴ…!!」

泣き叫ぶ声で意識が戻った。目を開くと、痛い程に抱きしめる細い腕が見える。
「…メア…リー…?」
「ひくっ…イヴ…!もどって、きた…よかった…!」
見渡すとそこは、元いた病院の廊下。壁も床も白く、窓からはよく晴れた青空が広がっていた。
元の、世界。
自分がなにも無い床から染みだすように戻ってきたと、メアリーから聞かされるのは、もう少し後の話。
「……!」
「……イ、ヴ?」
急にぎゅっと抱きついてきたイヴに、メアリーはびっくりするが。
イヴはそれどころじゃなかった。
ありありと憶えている記憶と気持ち。頭の中じゃ収まらないそれが、瞳から。

「…ごめんね…。」
ただ、ただ、ひたすらに。
「ごめんね…!」

宛先すら失った言葉を、叫び続けた。




微笑う死体とする茨姫


fin.




***

お前は一体どこの薔薇乙女だ。
非常にわかりづらい気がしますが作品化ギャリー妄想でした。